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千葉大学学術成果リポジトリ
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2025-05-28
03:39 集計
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S09138137-35-P001
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基本情報
データ種別:学術成果リポジトリ
タイトル
体育教師論における身体・文化・言語 : メルロ=ポンティを手掛かりに
タイトルの別表記
Body, culture and language in the argument on PE teacher : Discussion on Merleau-Ponty’s philosophy
作成者
坂本, 拓弥
作成者の別表記
SAKAMOTO, Takuya
内容
[はじめに:体育教師論の課題] 本稿の目的は,体育教師論における身体,文化,及び言語を改めて検討し,それらの関係を捉え直すことによって,体育教師の文化と言語を身体論として論じる必要性を提示することである。これは,今後体育教師の身体論を構築していくための基礎的考察であり,その身体論の全体像を素描するものである。体育教師に関わる文化と言語は従来個別に論じられてきた。つまり,文化についてはある集団における伝承過程が検討され,また言語については記録された言語の分類と分析が試みられてきたといえる。しかしそこには,実際に一人の体育教師がある文化をどのように身に付け,またその教師が発する個々の言葉にはどのような意味があるのかという,より実質的な視点が見逃されてきたという課題がある。そのため,本稿は,現象学的身体論の視点から,体育教師特有の文化性,すなわち,しぐさや身振り,及び彼らのパロールとしての指導言語を捉え直すことで,この課題の解決への手掛かりを得ようとするものである。この目的を達成するために,モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)の『知覚の現象学Phénoménologie de la perception』1)に基づいて考察を進める。後に詳述するように,本著作は,われわれの知覚を科学的認識の基盤と位置づけ,その重要性を論じたものである。従って,実証的な研究が主流となりつつある体育教師論において,彼の論点は新たな可能性を提示することが期待される。まず予備的考察として,体育教師論の現状を批判的に検討し,その課題を簡潔に示したい2)。これまで体育教師論においては,体育教師に求められる資質や能力が様々に論じられてきた3)。特に最近では,授業場面で求められる指導技術に関する論議が盛んになされている4)。そこでは,指導言語や教材等の有効性が児童・生徒の授業評価との相関によって検討されており,方法としては主に実証(科学)的な数値的分析が用いられている5)。それらは,授業研究に客観的な指標を確立する試みであり,一定の評価を与えることができよう。しかし,授業における教師と児童・生徒との関係を,そのような数値的分析によって因果関係として捉えることについては,批判もなされている6)。その要点は,数値による実証的分析は,教師と児童・生徒との関係を単線的な因果関係として捉えることで,現実の授業が複雑な関係によって成り立っていることを見逃している,という現状に対する批判である7)。また,そのように客観化された指導技術が重視されることによって,多くの教師が標準化された指導技術を用いるようになると考えられる。これは便利な反面,個々の教師が自らの存在意義を実感することを困難にし,結果として,教師の実存的な危機を招来することが指摘されている8)。このように,今日の体育教師論においては,教師と児童・生徒との関係が単純化されたモデルとして提示される傾向にあり,その根底にある根源的で複雑な関係が軽視されている9)。この根源的な関係は,実証的に捉えられた世界(客観的世界)をその基盤として支える,教師と児童・生徒との「生きられた世界monde vécu」10)における関係である。そして,この「生きられた世界」の重要性が深く論じられているのが,メルロ=ポンティの『知覚の現象学』である。メルロ=ポンティは,学位請求の主論文である『知覚の現象学』(1945)と副論文である『行動の構造La Structure du Comportment』(1942)をはじめとして,多くの哲学,特に現象学的著作を著している11)。初期の主著である『知覚の現象学』においては,「知覚」を現象学的視点から主題的に論じ,従来の主観と客観,心と体という二元論的思考の克服を目指しており,その中で,「生きられた世界」及びそこにおける身体についての詳細な議論を展開している。彼は,上記の目的を達成するために哲学に課せられた課題を,次のように表している。すなわち,「最初の哲学的行為Le premier acte philosophiqueは,客観的世界monde objectifの手前にある生きられた世界にまでたち戻ることだ」12)というのである。そしてその理由を,「この生きられた世界においてこそ,われわれは客観的世界の権利le droitもその諸限界les limitesも,了解することができる」13)からであるとしている。この「生きられた世界」について,長滝祥司は,それが「始源的な知覚世界を表現する概念であり,近代科学が構築した科学的世界像の基底にあって,それを基礎づけるという役割を担う」14)ものであると述べている。このように,「生きられた世界」は,身体的存在である人間が有する知覚という根源的な働きが担っている世界なのである15)。知覚は,一般的に見ることや聞くことと同義として捉えられており,それはわれわれの意識的な行為であると理解されている。しかし,松葉祥一によれば,「メルロ=ポンティが注目したのは,むしろ『目の端でとらえる』ことや『何となく聞く』ことなど,いわば前意識的な知覚」16)なのである。この前意識的な知覚とは,意識の対象(図)を成立させるために必要な背景(地)を捉えることである。松葉が述べるように,「こうした知覚があることによって,...中略...(われわれは)習慣的行動をとることができる。」17)(括弧内引用者)のである。換言すれば,われわれはこのような前意識的な知覚によって,身体として外界の物や他者と関わっているのであり,それは通常,暗黙裡に行われているといえる18)。以上が,『知覚の現象学』におけるメルロ=ポンティの「生きられた世界」及び身体に関する主張の概略である。そしてそれは,哲学において「知覚と身体の役割」の重要性を示し,「哲学に大きな変革をもたらした」とされる19)。すなわち,「前意識的な知覚が人間の意識活動の基盤にあること,また身体がこうした知覚の主体としての役割を果たしていること」20)を明らかにした点が,メルロ=ポンティの『知覚の現象学』が持つ独創性といえよう。もちろん,本著作は彼の哲学を集約するものではないが21),「生きられた世界」という視点は,体育授業を根本的に捉え直し,体育教師の身体,文化,及び言語を再考する有効な視点になると考えられる。従って次に,これらを再考するための基盤となる身体論について、『知覚の現象学』の記述を参照して考察を進めていきたい。
[ABSTRACT] The purpose of this paper is to show the necessity of discussing culture and language for PE teacher based on Maurice Merleau-Ponty’s philosophy of the human body, especially Phénoménologie de la perception. For this purpose, previous studies on PE teacher are critically surveyed to indicate the necessity of qualitative aspect of PE class and the significance of the idea of “lived world” in Phénoménologie de la perception. The main points for discussion are as follows: (1) Human body has a layered structure consisting of “habitual body (corps habituel)” and “actual body (corps actuel)”, and also has a specific function, i.e. “body schema (schéma corporel)”. (2) Perspective on the body schema is an essential to clarify the formation process of body culture which has been considered from the viewpoint of “habitus” so far. (3) PE teacher’s language is to be considered as “parole” similar to body gesture. To conclude, body, culture, and language should be considered as a mutual relationship in the discussion of PE teacher. This perspective would present a new raison d’être of PE.
ハンドルURL
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/107586/
フルテキストへのリンク
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/107586/S09138137-35-P001.pdf
公開者
千葉県体育学会
公開者の別表記
Chiba Society of Physical Education
NII資源タイプ
学術雑誌論文
ISSN
09138137
NCID
AN00241194
掲載誌名
千葉体育学研究 = Chiba Journal of Physical Education
巻
35
開始ページ
1
終了ページ
8
刊行年月
2013-03-31
selfDOI
10.20776/S09138137-35-P1
著者版フラグ
publisher
カテゴリ
千葉体育学研究
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DCMI資源タイプ
text
ファイル形式 [IMT]
application/pdf
言語 [ISO639-2]
jpn
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